おはようございます!
みなさん。バリで出会ったフィンランド出身のビレ19歳を覚えていますか?
こちらビレ👇
彼は今、日本を旅行中なのですが、昨日連絡がありまして。
サリ〜また違う病気にかかった〜😭
(先々週にも中耳炎になった〜😭との報告有。)
またか!今度はどうした!
キス病にかかって薬たくさんだし息するのも辛い〜😭😭😭
キス病って何?と思いますよね?知ってます?
キス病(正式名称:伝染性単核球症)とは、 ヘルペスウイルスの仲間である、EBウイルスの感染で起こる病気です。キスによる感染が多いので、アメリカでは「キス病」と言われています。(キスや飲み物の回し飲みなど、口からの感染が多い)
STD研究所さんより
彼曰く、きっとバリにいた時に感染したと。
確かにデバとかと回し飲みの回しタバコすごいしてたからな。
みなさん海外(特に不衛生な場所)での回し飲みはやめましょう。
日本に入って病院続きのビレくん。可哀想。早く良くなるといいけど😢
昨日の続き。
【7/3: 世界一周46日目】
◆PNG/ポートモレスビー3日目◆
◇Day 3 in Port Moresby/PNG◇
前日はJoshの先輩ご夫妻とスカッシュして、
ビールをいただき、
ピザまでご馳走になってしまいました。
PM3日目は、Josh達に1日観光に連れて行っていただきます😎
早速持って行くランチの準備。
☝️写真左に写っているのはJoshのお友達、Oliver/オーストラリア人。
Oliverもパイロットで違う航空会社に勤めてるのですが仲良しです。
初日の映画も昨日のピザも一緒でした😊
本日一箇所目はこちら👇
BOMANA WAR CEMETERY/ボマナ戦没者墓地
ボマナ戦没者墓地は太平洋で一番大きい戦没者墓地で、こちらには太平洋戦争で命を落とした約4千人ものオーストラリア兵とPNG兵が眠っています。
墓石には故人の名前と年齢が彫ってあり、身元不明のものもありました。
👇こちらはオーストラリアが建てたモニュメント。
モニュメントに書いてある「KOKODA TRAIL/ココダ・トレイル」とは、太平洋戦争中に旧日本軍がニューギニアのポートモレスビーを陸路攻略の為に切り開いた山脈を越えるルートで、太平洋側内陸の村ココダから、標高3千mのスタンレー山脈を越え、首都ポートモレスビー30km手前のオワーズコーナーに至る、直線距離約60km歩行距離約96kmの山岳トレイルです。
1942年7月から1943年1月まで、日本陸軍の南海支隊とオーストラリア軍・パプア人の部隊は、スタンレー山脈のジャングル地帯で激しい山岳戦を交え、この戦いでは日本側は約1万3千人、オーストラリア側は約6千人以上の犠牲者を出したと言われています。なお、ココダトレイルは近年、太平洋戦争中に日本軍が過酷なルートを辿った戦争遺跡としてオーストラリア人を中心にPNG国内で最も人気があるトレッキングコースだそう。
ここで「ポートモレスビー作戦」について。
ポートモレスビー作戦とは、太平洋戦争(大東亜戦争)中のニューギニア戦線において、日本軍と連合国軍とがポートモレスビーの支配を巡って行った戦闘。当時はスタンレー作戦と呼ばれ、連合軍側の名称を和訳して、前半をココダ道の戦い (Kokoda Track campaign) 、後半をブナとゴナの戦い (Battle of Buna-Gona)とも呼ぶ。
さらに分かりやい記事を発見したので下記転載します。
昭和17年7月、ラバウルに進出した日本軍に抵抗したのはオーストラリア軍と米軍で、ポートモレスビーからラバウルへ激しい空襲を繰り返した。
そのため、日本軍はポートモレスビーを占領してラバウルの安全を図ると同時に、オーストラリア北部地域の制空権を手に入れる、これがポートモレスビー攻略の公式戦史の理由だ。
当初は海軍による占領計画があったが、世界初の空母艦隊同士の決戦といわれた昭和17年5月のサンゴ海海戦で日本海軍は空母「祥鳳」沈没、空母「翔鶴」大破の損害をだし、一方米海軍は空母「レキシントン」、油槽船「ネオショー」、駆逐艦「シムス」が沈没、空母「ヨークタウン」が中破という損害を出した。
このため、海からのポートモレスビー攻略をあきらめ、陸上からの攻略作戦に切り替えたが、北部海岸から南部のポートモレスビーに行くまでには標高3千メートル級のオーウェンスタンレー山脈があり、しかも車の通れる道路も無い状態であった。
そのため、当初はこの作戦はあまりに補給の準備がいるとのことで中止になりかけたが、視察に来た大本営参謀・辻正信中佐の「モレスビ―攻略は陛下のご意思である」とのウソの発言で、計画実行が決まった。
この実行部隊が南海支隊であった。中心となったのは高知市朝倉で編成された3500名からなる歩兵第144連隊であり、これに広島県福山市で編成された歩兵第41連隊、高槻市で編成された独立工兵第15連隊が加わった。
歩兵第144連隊は、歩兵第44連隊(鯨部隊)の後で編成されているが、善通寺の11師団の管轄ではなく、日本唯一の大本営の直轄部隊であった。
また、通常の歩兵部隊ではなく、米国の海兵隊と同じく、上陸・侵攻を専門とする部隊であった。
ここに所属したのが西村幸吉氏であり、第5中隊第3小隊56名中唯一の生き残った兵士である。
歩兵第144連隊は昭和16年12月9日にグァム島に上陸、次いで昭和17年1月22日にはニューブリテン島ラバウルに上陸、ここで初めてオーストラリア軍と戦闘をした。
ニューギニア上陸は昭和17年3月8日で、北部のサラモアに上陸した。
ポートモレスビー攻略作戦は同年7月21日から始まり、オーウェンスタンレー山脈の道なき道をオーストラリア軍との戦闘を続けながら進み、ポートモレスビーの灯が見えるイオリバイワまで進軍したが、大本営のガダルカナル作戦重視(同年8月から始まっていた)の方針により、同年9月25日に撤退命令が出て引き返した。
この時期、当初の懸念どおり日本軍の補給も続かなかった、ガダルカナル作戦と同じく、補給軽視の日本軍の弱点が早くも出た。
兵士は食料も無く、餓えと病気と戦闘で死んでいき、結果は昭和18年1月にギルワから撤退するまでに南海支隊は壊滅した。
以上がポートモレスビー攻略作戦の概要である。
こちらの記事を書いているサトシさんこと中西さんに内容転載の許可を得るため連絡をしたら快くOKしてくれて。ありがとうございます。中西さんはなんと高知県議会の議員さんです。
また記事内に登場する西村幸吉さん。第5中隊第3小隊56名中唯一の生き残った兵士さん。
「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな。」国際派日本人養成講座さんより
この言葉は、撤退命令が出て引き返す際に、自力で歩けず残される兵士に向けて約束した西村さんの言葉。
この約束を守るべく60歳になってから会社も家族も捨ててニューギニアへ戻り、それから25年もの間かつての戦友たちの遺骨を収容し続けたそうです。60歳から85歳の間ですよ。すごすぎます。
西村さんは昨年2015年の10月に満95歳で亡くなられたのですが、今年の7月に遺骨の一部をニューギニアへ埋葬したと中西さんが教えてくれて。
私がここに来たのも7月。同じタイミング。
偶然訪れた場所だけど、なんだか偶然とは思えなくて。
もっともっと西村さんのこと・戦争中のこと知りたくなりました。というより知らなくちゃいけないんだなと。
午後には有名なこちら👇
Owers’ Corner/オワーズコーナー
(その間にアドベンチャーパーク・ランチ挟んでますが、そのことはまた後ほど。)
到着した頃には、沢山の学生さんたちと入れ替わり。課外授業ですかね。
観光客が珍しいのか見られまくりの写真撮られまくり。
こちらがココダトレイルの入り口です。
そんな入り口でおしゃべりしてた現地の方々。
とっても気さくに話しかけてくれて。写真を撮って見せてあげたら、ありがとう〜とっても綺麗に撮れてるわ〜と喜んでくれました☺️
こちらはオーストラリア兵がここオワーズコーナーまで運んできた25ポンド砲銃。
激戦地だった場所に立っているんですよね。
ちなみに私よりJoshの方がこの時代のことに詳しくて、分かりやすく説明してくれました。
でも、歴史背景をしっかり理解した上で再度訪れたいなと。
とっても大切な日になりました。
続きはまた後ほど!
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